はじめまして!
ぶっでぃです^^
「いきなりWebサイトなんて開設して、こいつ何者!?」
って思ったんじゃないでしょうか。
医学部学士編入学試験の受験歴や学習のエッセンスなど、今後たくさん書いていこうと思います^^
このページでは、まず自己紹介ということで、僕のいろいろを書いていきますね。
「ぶっでぃ」って?
自分の本当の能力を生かし、自分の本当の人生を歩みたい。
そう思い立ち受験するも、1年目の合格数はゼロ。
藁をも掴む思いで、2年目には勉強法も生活も一新し、志望校4つすべてに一発合格。
- 2017年受験:香川(一次○、二次辞退※)、富山○、大阪○、北海道○
※香川は阪大一次試験と日程重複のため辞退
※追加合格ではなく全て一発合格。
※各校の過去問対策はしていません(阪大除く)。
現在は最難関の大阪大学に入学し、憧れの医学生生活を満喫中。
経歴の証明
経歴がニセモノでないことの証明のため、一部掲載しています。
[阪大合格通知書]
[北大合格通知書]
[阪大・北大受験票] ※本当に受験したという証明
[富山大合格通知書]
(※富山大の受験票は手元になく、機会あれば掲載します)
[2012年度東北大学総長賞] ※博士課程修了時
プロフィール
0歳
1985年5月30日、ごく普通のサラリーマンの家庭に生まれる。北海道札幌市。
- 父方は山形から、母方は福井から北海道に入植した家系(ともに北海道5代目)。
- 母方の祖父は青森から現在のえりも町に終戦後移ってきて、電子技術者をしていました。その後札幌に引っ越して、両親の出会いがあったようです。
- 父の実家は貧乏で、父は中学校を卒業したら働こうと思っていたらしいが、父の兄=僕の伯父に、「いまどき高校くらいは出ておいたほうがよい」といわれ、高校に進学。結果としてそれが正しいと知った。子供には本人が望む道を進ませてあげたいと願うようになったようです。このおかげで僕は自分の人生を自由に選択することができたのだと思います。父に本当に感謝の気持ちでいっぱいです。政治経済の話題に明るく、僕を政治家に育てたかったという話を本人から聞いています。座右の銘は「人の役に立つ人になりなさい」「お前は世界を変えるんだよ」
- 母の実家は祖父が非常に向上心のある技術者だったようで、比較的裕福でした。祖父は小学校1年生のときに図面だけを見て自分で部品を買ってきてラジヲを自力でくみ上げたり、絵画の県大会に優勝したり、旧制中学校卒業時に東北帝国大学医学部への進学を見据えた進路選択をするよう担任の先生から推薦の話があったり等、才能に恵まれていたようです。ただ、祖父は実の両親に育てられず、実家には遠慮があったようで、旧制中学校卒業後に北海道に移住してきました。旧制中学までしか卒業していなかったにもかかわらず意欲的に学んで技術を身につけ、自分よりも学歴がある人を指導し、彼らよりも上の立場にいたようです。また、職をかえるごとに給料が上がっていくような人でした。僕も幼少時から祖父とともに過ごす時間が長く、理数系の興味や向学心、ひいては医師になることへの興味など、少なからず影響を受けたと思います。母も祖父の影響を受けて考え方が合理的で、非常に教育的な厳しくも優しい母でした。
4歳
水泳との出会い。ピープルスポーツクラブ(現:コナミスポーツクラブの前身)入会。
はじめて顔を水につけたとき泣いたんだとか。
- なお、この頃、なぜか親戚の多くが続けて亡くなる(2年間で5回)。葬式とは年間行事だと思っていたこの頃。多くの葬儀に参列する中で、人が死ぬいうことはどういうものなのか、肌でたくさん感じ取ったと思います(「冠婚葬祭」というけれど、前者のほうはゼロ。25歳までこの状況が続きました)。
5歳
幼稚園に入園。
- 人との関わりよりもその辺の草花や虫に興味を示すほうで、幼稚園でもほとんど一人で遊ぶような子供でした。
- 集団の中でも浮いていることが多く、結構頻繁にいじめを受けていましたが、割と平気でした。(自分をいじめたくなる事情がその人の中にあるんだろう、人は人、自分は自分、という価値観がこの頃についたと思います)
- 当時両親が与えてくれた玩具は、トミカ、プラレール、レゴブロック。ひたすら街、自動車、鉄道、飛行機などを作っては壊しを繰り返す子供でした。
- この頃からすでに、母は基礎的な算数の問題になじむよう、工夫してくれていました。足し算引き算、九九。算数は道具なので、自在に道具が使えるようになったらいくらでも応用が利く(=勉強についていける)ということをこの頃知ることができました。基礎固めが大事であるという信念はこのあたりから来ています。
6歳
小学校に入学。母の教育の甲斐もあり、常に成績が学年トップ。
- 幼稚園の頃とは打って変わって友達がたくさん出来始めました。人付き合いの楽しさをこの頃から知り始めました。
- いままで遭遇したことのない、命にかかわるようなイジメに遭遇。当時はひとつのことに熱中するか、ぼーっとしてるかだったから(今もそうか!?)、標的にしやすかったんだろうか。塩と砂糖を呑まされる、包丁が飛んでくる・・。いじめていた子は、父が家に帰らず母はパチンコ三昧で孤独だった模様。この子もかわいそうな子だなと思います。いじめという意味では加害者ですが、ひとりの子供という意味では被害者です。子供は何も悪くないから。さすがに程度が程度だったため、担任に報告してクラス替えすることで落ち着きました。とはいえ、やはり割りと平気でした。
- 水泳でタイムが飛躍的に伸び、通常コースから選手強化コースに移籍
11歳
小5のとき、札幌市内で引越し(厚別区→手稲区)
- 人生で初めての転校。これまで共に時間を過ごしてきた友達との別れは本当にさびしかった。新しい学校でも、それはそれで楽しく過ごすことができました。
- 選手コースに移ったはいいが、タイムが思うように伸びず挫折感にさいなまれる。だからといって諦めるのは嫌で、親にお願いして続けさせてもらう。
13歳
地元の公立中学校に入学。自分は得意不得意が非常に偏っていることを知る。
- 5段階評価で、数学・理科・社会は4-5をキープする一方で、英語と国語は3、美術と体育は2という有様でした。一方、音楽は常に5でした。
- 父と担任から高専の存在を知らされ、さらにエンジニアだった祖父に触発され苫小牧高専物質工学科に進学することを決めました。
- この頃より、リーダーという立場に立つことに喜びを見出すようになりました。学級委員2回、生徒会副会長1回。
- 悔しさだけで続けていた水泳でしたが、やはり自分はどれだけ努力しても水泳選手としては伸びしろがないと悟り、水泳をやめました。あこがれ、目標がないまま、悔しさや、辛さを我慢する根性だけでは人は伸びないということを、この時期学びました。
- しかし、悔しいという感情は「自分にもできるはずなのに」という「自分に期待する」感情であることも知りました。この感情は人を行動に沸き立てる心のエネルギーにもなります。僕はこの後の人生で、受験や諸活動など勝負を仕掛けていく場でそれを生かしていくことになります。
16歳
苫小牧高専物質工学科(旧:工業化学科)に入学。
- 勘違いされる方も多いのですが、高専は工業高校ではなく、高校でも、短大でも、大学でもなく、“高専”という一つの教育機関の名称です。当時、地元の学区から進学できる一番良い公立高校(北海道立札幌西高等学校)に次ぐ偏差値(65前後)がありました。参考:北海道高校偏差値一覧
- 高専に進学したのは大正解で、化学と数学の面白さに目覚めた僕は、5年間学習に日夜没頭しました。父と担任の大浦先生に感謝。
- でもそれ以外はからっきし。物理も生物もまったく身につきませんでした(単位習得ぎりぎりの低空飛行)。よく大学に受かったもんだ。
18歳
体重が99.5キロ到達。さすがに100キロはヤバイと焦る。
- 中学校まで続けていた水泳をやめたあと、とたんに体重増加。たべるの大好きなんすよ・・。
19歳
一念発起して、半年間で99.5→61.5キロまで減量する。クラスの周りからびっくりされる。
- やせるだけで、人はその人に対する印象を180度変えることを学びました。人は外見9割、どころではありません。友達の幅が広がり(それまではオタク系)、彼女ができる。
でもまた最近太ってきました。いかんいかん・・。- なぜかネトゲにはまる(苫小牧は実家の札幌から離れていたので寮に暮らしていましたが、その環境でこれまでハマらずいられたのが奇跡だったのかも)。
- 某化学メーカーにインターンシップ。最先端の有機合成と創薬の最先端を目の当たりにし、自分がこれまで学んだことがいかに社会に生かされているかを知りました。その会社では高専生も研究に配属させてくれるらしく(たいていは製造現場に配属)、卒業したら就職しようかも若干迷ったが、結局学問の道を極めようと大学に進学することを決意する。このころから博士課程に進むと決めていました。
20歳
高専5年の夏、東北大学に合格。京都大学に不合格。
- 過去問対策はしませんでした(できませんでした)。当時webが発展途上であり、大学はどこも過去問を公表しておらず、かといって受験経験者が知り合いにいて過去問題が入手できる状況というわけでもなく、対策のしようがありませんでした。この頃の経験が、基礎力をつけて当日の戦闘力を高めることの重要性を僕に教えてくれました。またこのような情報不足の中、道を切り拓く術はこのあたりで学びました。
- 自分にできることといえば化学の勉強をひたすら極めること。数学も得意だったので一通り復習。勉強期間は1ヶ月弱でしたが、めでたく東北大合格(物理、英語も、少ない既習範囲を極めることで、それなりに対応できたとは思います)。選択と集中のセンスはこのあたりに身についたと思います
- しかし、同年に受けた京都大学は不合格。京都大学はクセのある問題で有名でしたが、周りの受験生は、案の定過去問でガチガチに対策済み。自分は対策できないくやしさ。環境の違いによる格差に憤りを覚えたのがこのころでした。
- 尚、高専卒業生全国約1万人中、東北大学には毎年20名程しか合格せず、その進学率は全体の0.2%以下。高校卒業生全国100万人中、東北大学には2400名ほど入学することを考えると(進学率0.2%)、高校→大学と同程度に門が狭い試験であることがわかります。
- また、人はやるべきことをやれば必ず達成出来るという信念を深くし、自分ではなく他人も出来るはず、という教育への情熱をこの経験から深めました。
- 同時に、やるべきことが知れない状況への不条理さも身にしみて経験したため、「人は誰でもふさわしい情報にアクセスできなければならない」という信念も強めることになりました。
21~22歳
”まずはやってみる”の大学生活。
- オリエンテーリング部に入部。山の中を走り回るうちに、基礎体力が相当身につきました。
- 大学でも寮暮らしだったので、ここでも寮長に立候補し選出されました。自治寮だったので、過去の先達が放置していた問題が山積みでしたが、すべて4ヶ月で改善しました。
・廊下一面にぼろぼろに剥げたカーペット → フローリング化工事
・廊下に散乱する荷物 → 保安防災上きわめて危険。すべて撤去の告知を出し、違反者には罰則規定。現在まで清潔な状況が続いており、消防署の査察でもほめられたとか。
・洗濯機は10年以上前の旧式 → 最新のドラム式に更新
・立地的に湿っぽかったのに選択乾燥機ひとつない → 各階に2つ設置
・財政状況がきわめて不健全 → 年間予算+50万円で定常状態にするシステムを構築(寮費滞納者からの回収促進)
・片手間で入寮者選考もしっかり進める。
以上、寮生から費用を追加徴収することなく、大学と協議・交渉して大学予算で進めました。寮長がしっかり方針を示すことで、副寮長以下委員会や大学側寮務係が協力してくれ、思いのほかサクサクと進めることができました。 - 高専時代からずっと有機化学に専念してきましたが、新しい分野に飛び込んでみようと、思い切って分野を変更しました。もともとエンジニアに憧れがあったことから化学工学という化学プラント設計に特化した学問を選択しました。当時配属された研究室は、1930年に米国で興った化学工学を米国留学で学んだ3名(八田四郎次→東北大学、内田俊一→東京工業大学、亀井三郎→京都大学)のうちの一人、八田が日本で初めて開いた化学工学教室の直系研究室(化学工学第一講座)でした。
23~27歳
”実をつける”大学院生活。研究と院生会と海外。
- 製鉄業の消費エネルギーは日本の10%、産業全体の30%を占めていて、製鉄業に(投入するコークス量)≒(製鉄業の消費エネルギー)なので、コークスを低減すれば日本のエネルギー政策に多大なインパクトを及ぼすことができます。そのための研究をしていました。
- (投入するコークス量)=(化学量論で必要な量)+(溶鉱炉内通気性確保用)で、減らすとすれば後者。そのためにはコークスの強度を高める研究を実施しました。
- ここで培ったツール、方法論が後輩に引き継がれ、いまだに成果が出続けています。博士時代は非線形有限要素法で複合シミュレーションを構築していたので、博士の3年間はほとんどそれに費やされました。そのぶん今は後輩が成果を出すためにがんばってくれているようです(2018年も受賞あり)
- 化学工学は、一連の工業プロセスを構成要素に分解して、各個を最適化して、適切な順で接続することに尽きます。この方法はプラント設計以外にも使えて、研究や業務にも応用できます。さらに、目標達成のための最短ルートとして、受験にも応用できます。これは化学工学を専攻したからということが大きいと思います。
- 研究するにつれて業績もでてきてました。
・学術論文(査読あり) : 国内誌5報[うち筆頭1報]、国際誌12報[うち筆頭1報]
・学会発表 : 国内学会(査読なし)22件、国際学会(査読あり)14件[うち発表5件]
・第12回宮城化学工学懇話会先端研究発表会 最優秀発表賞(2013)
・東北大学総長賞(2013)
・日本鉄鋼協会, 俵論文賞(2016)
・日本鉄鋼協会, 澤村論文賞(2018) - 博士1年時、化学系4専攻の大学院生全350名が組織する学生組織「院生会」の会長として従事しました。会長時代は、修士学生メンバーをまとめ、さらに博士同期の副会長と協力して、学部学生への院試模試、研究室対抗駅伝大会など、専攻の恒例行事を主催/運営しました。
- 特に会長時代の新たな試みとして、駅伝大会が東北大学に50年近く続くイベントであることを前面に出してプレゼンし、企業から協賛を得たというものがあります。出走者にドリンクや栄養補助食品を提供できただけでなく、景品や参加賞も豪華となり参加者から大変喜んで頂きました。
26歳
日本学術振興会特別研究員(DC2)採択。
- 学生でありながら国から給料と研究費をもらいながら研究生活をする制度です。日本の大学の研究者は日本学術振興会に科学研究費助成事業に申請して研究費を取ってくることが多いですが、学生のときからこれとほぼ同じことをしていました。
- ちなみに学振特別研究員は採択率30%を切りますので、同期の博士研究員の上位1/4~1/3に入ったことになります
28~32歳
グローバル総合化学メーカーに就職。
- 博士時代に、「工学を専攻したからには、ものづくりの現場を知らねば一人前とはいえぬ」という価値観が生まれ、民間企業に就職しました。
- ひととおり経験したうえで、改めて企業勤めかアカデミアを選ぼうと思っていました。(工学分野であれば民間経験者の教授が相当数いる)
- 4年間で、大量生産品(バルク製品)用の連続プラント、精密化学品(ファイン製品)の回分プラント、環境技術用プラント、セラミック製品の開発など、様々な仕事を経験させてもらいました。設計、中規模実験、立ち上げ、いずれも経験としてはエキサイティングでしたが、既存技術の使いこなしが中心で、学術的な発見という局面は少なかったと思います。
- ちなみに勤務地には寮暮らしでしたが、そこでも寮務委員長に就任しました。寮祭運営では、歴代委員長は毎年多岐に渡るタスクに追われていましたが、業務の要素分解・構造化・マニュアル化を行い、最小労力で一定以上のパフォーマンスをだせるシステムを構築しました。それ以来、寮務委員長になることを拒む人間も減ったと聞いています。またここでも財務が赤字(!?)だったため、使途を最適化して60万円のプール金を創出することに成功しました。
- 4年勤めたのち、ものづくりの現場は一通り体験できたし、技術も習得したと感じました。そのうえで民間かアカデミアか、という問いを自分に発したとき、自分の能力を生かしきる道はやはりアカデミックな研究であったと思い返しました。
その際、
- 昔から医師になることに興味はあったこと(中学校卒業時点で工学の道にすでに進んでいたため、最初は諦めにかかっていた)
- 医学は未知のフロンティアにあふれた魅力的な分野であること
- 人の精神構造はどう形成されるのかについて興味があった
などの理由から、医学の道に進むことを決心しました。
31歳
結婚。仕事しながら大阪大学医学部医学科学士編入学試験を受験するも、勉強時間を確保できず、失敗。
32歳
医学部医学科学士編入学試験に再挑戦。半年間ほぼゼロからの勉強の末、大阪大学、北海道大学、富山大学から最終合格(いずれも追加合格ではなく当初掲示分で)。
また、香川大学から筆記合格(大阪大学1次試験と日程重複のため)をいただく。
33歳
現在、新しいコンセプトの統合脳科学研究を推進する研究医を目指し、医学の学びと研究を推進中。
医学部編入学制度が抱える課題と僕のミッション
1年半ほど医学部編入学制度関わってきた結果として、
現在、この制度が抱える問題は、構造的に以下3つに分類されると考えています。
- 情報の入手性: 一般受験に比べて合格者数も受験者数も少ない、合格者による情報提供が少ない、大手予備校が情報を囲い込み情報を有償化、これにより情報拡散しない問題
- 普及・参入障壁: 世間への認知不足、勉強範囲の絞り込みにくさ、左記情報の入手コストが高い問題
- 受験生の質: 医師になるためには合格できそうな大学を片っ端から受ければよいという卑屈な受験生、行き詰った現状を打開するため受験し未来へのビジョンがない受験生、入学後に留年する編入生、などがある問題
医学部学士編入学の当初の目的は、総合科学である医学研究の打開のため多様な学問背景を持った人材を受け入れ、優秀な研究人材を確保することことにあります(1975~、大阪大学)。その他、人格的な円熟と社会経験に立脚した良医確保という目論見もあります(2005~、その他大学)。
一般学生の集団に学士持ちを編入学させるという制度は、医師生命の長い臨床医を育てる傍ら、優秀な人格者・学者こそ医師になってもらおうという米国のメディカルスクール構想にもヒントを得た日本独自の優良な制度だと個人的に思っていますが、これらの目的が上記3構造によって阻まれているという状況です。
1,2は明確な目的意識をもった実力ある人材の流入を阻害します。これを解決することで、日本人全体の医学部学士編入への認知が高まり、優秀な研究人材と良医を確保できます。
また、上記および3は、むしろ目的意識が不明確な依存体質の人材を医療業界に受け入れてしまいます。膨大な時間と予算を使ってこれでは本末転倒です。これを解決することで、高いモチベーション・医学への意欲・優秀な人材のみが流入し、相対的に低レベル人材を排除できます。
もって、大学の医学部編入学への評価が高まり、社会人経験・学士をもつ多様かつ優秀な人材が医学に多く参入することで、日本の医療全体のレベルが向上します。
そのため、これら3つの問題のうち、全てにインパクトを残せる発信をしていくことが大事だと考えています。
こうありたい、という自分像
人間の時間の使い方をコミュニケーション時間優先タイプと、
自己研鑽・真理探究時間優先タイプに分けると、
明らかに自分は後者(ここ研鑽・真理探究時間優先タイプ)です。
したがって、中学校卒業以来培ってきた理系知識、組織のリーダーとしての様々な経験、民間企業での実務経験、医学部学士編入学試験、読書を経て得た知識から、
自分が社会貢献や医学研究の戦略のベストミックスを考えることに多くの時間が費やされます。
しかしながら、理論と実践のバランスの中で、特に若いころは実践がほぼ100%の重要性を占めます。
実践から多くのことを学びましたが、ひとつ例を挙げるとすると、「自分には期待し、他人には希望を持つ」というものがあります。
どのような戦略や構想に対しても、
理解でき、実行でき、そして「やりたい」という気持ちになってもらわなければ、
人は動かないということです。
だから、僕は以下のような発信を心がけます:
- 目標達成が可能だと知ることができる
- 目標を達成する具体的方法が理解できる
- それを行動してみたいと思える
それぞれ人口比1/10くらいの比率ですから、
全てを極めれば1/1000(=上位0.1%)に入れる計算ですので、
大概のことであなたが達成できないことはなくなるでしょう。
3つ目の要素について、
人は他人からある特定の成果を期待されてそれに答えようとしたとき無理がでますが、
自分という人間に一抹の希望を持ってくれた人には精一杯答えたいと思うのが人情です。
あなたは、もしかしたら他人からの期待にも答えようと思うかもしれませんが、
その前にまず自分に目標を達成する期待を持ってほしいと思います。(そういう人が日本に増えてほしいと思っています)
僕はあなたに「やれば必ずできる」という希望を持っています。
医学部編入に関しては、1つ目2つ目の要素は僕が満たします。
3つ目の要素についても、障壁を低くし挫折つぶしのコンテンツも充実させていきます。
あとは、あなたが自分に期待して行動すれば、必ず成功するという希望を持ち、発信していきたいと思っています。
また、情報発信者として、
- 理論の考察力(=仮説構築力)
- 実践力(=背略を実行する力)
- 0から1を生み出す起業家の力
- 1を100に成長させる経営者の力
・・対極にあるこれらの特質において、それぞれ一定のレベルでありたいと願っています。
信念を形成した経験や挫折
- 自分が進みたいという意思を示した道について、自由に進む権利がある。 父の影響。
- 肉体も感情も死ねばなくなるが、積み重ねてきた生き方は残る。 幼少時、多くの親戚の死を目の当たりにして。
- 人は人、自分は自分。人には希望をもつが、アテも期待もしない いじめられた経験(=人からの影響)をうけたときと、組織のトップに何度も立った(=人に影響を及ぼした)ときの経験から。
- やるべきことをやれば、必ず成功する 受験時の戦略に沿って粛々と勉強した結果合格した経験から
- みな平等に知ることができる 京都大学不合格時の経験から。環境による格差は、悔しい。
- 理論で予測(仮説)、現場で検証。 業務経験より。どちらに偏ってもうまくいかない。
- どこまで考えて準備しているかが成功/失敗の分かれ道 人生を変える、決死の覚悟で受けた阪大医学部試験が不合格だったとき。妻に打ち明け、号泣。受験した各要素が成功することを前提にしてはいけない。大体失敗する。その掛け算である全体の実現可能性は極めて低い。ゆえにプロアクティブに事前に考え準備しなければならない。
受験勉強開始時のスキル
- 研究経験
高専: 高分子イオノフォアの合成
学士: 鉄鉱石を練りこんだコークスの強度評価法を確立
修士: コークスのミクロスケール気孔構造からマクロスケール塊強度を推算する方法を確立
博士: 石炭の加熱によるコークスミクロスケール気孔構造の形成をシミュレーション - 上記学位論文、投稿論文の執筆経験。
- 国内外学術発表において受賞可能な程度のプレゼンテーション・スキル
- 理系科目への親しみ(数学・化学全般)(ただし物理・生物は受験半年前にほぼ素人の状態から学習開始)
- タイピング350字/秒
- 甲種危険物取扱者
- 高圧ガス製造保安責任者 甲種化学
- 化学工学修習士
- プログラミング: 大学院の研究で、化学反応が伴う非線形有限要素法解析のコードを20万行以上書いている。
- TOEIC 520点。(高専卒業者平均よりは高いが、医学部編入学試験合格者平均からはかなり低い)
- 物理学、生物学は高校レベルすら未履修に等しいレベル。(ただし連続体力学とテンソル解析は大学院の研究で極めた)
- 個別指導塾での指導経験(中学生)。指導生徒10名中、8名が地元進学校に合格してくれました。
このように、勉強するための下地はできていたように思いますが、
化学以外は受験開始時にはまったく素人同然のレベルでした。
特にTOEIC 520点は致命的といってよいレベルでしょう。
にもかかわらず、半年間かけて適切な努力をすれば、医学部学士編入学試験に合格できるのです。
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コメント
コメント一覧 (3件)
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[…] 実際、半年前にはTOEIC520点からスタートしていたにもかかわらず、 […]
[…] まぁTOP>>とか自己紹介>>書いてある通りの動機でして、 […]